「釜鳴り沢」
さとうなつみ作
金山神社と釜鳴沢の伝説
(かなやまじんじゃとかまなりさわのでんせつ)
大嶺 白倉
西川(さいがわ)から白倉(しらくら)川にそって進むと、中日向(なかびゅう)というところに出ます。
今から、六百年も昔の南北朝時代※1のころの話です。
中日向にあるお城のふもとを流れる川ぞいの道を一人の男が通りかかりました。その時、一つの古がまが男の目にとまりました。
「これは、よい物を見つけたぞ。」
おなかがへっていた男は、さっそく飯(めし)をたこうとしました。その時、かまがとつぜん大きな音を立てて鳴り出しました。その音が、あまりにも大きかったので、驚(おどろ)いた男は、そのままにげ去ってしまいました。
これを聞いた村人たちは、
「この釜(かま)はただの釜ではない。どなたかりっぱな方の使った物にちがいない。」
「ていねいにおまつりしよう。」
と、口々に言い合って、金山神社(釜山神社)にこの釜をご神体(しんたい)としておまつりしました。
村人たちの言ったとおり、実はこのお釜は、中日向城(じょう)に身をよせていた尹良親王(ゆきよししんのう)※2がお使いになった物でした。そのため金山神社は、尹良親王をまつっているとも言われています。
金山神社には、こんな言い伝えもあります。
ある時、どろぼうがこの神社に入って、ご神体の釜を盗(ぬす)んでにげ出しました。ところが、ニキロほど行ったところで釜が急に鳴り出し
ました。
「いったい、何事だ。」
あまりに釜の音が大きかったので、村人たちが集まってきました。こうしてどろぼうはすぐにつかまってしまいました。
釜が鳴り出したということから、この場所は釜鳴沢とよばれるようになりました。
明治・大正時代には、神社には神主(かんぬし)がおられ、瀬尻はもちろんのこと、浜松(はままつ)や磐田(いわた)の方からもご神体においのりしようという、たくさんの人たちでおまいりが絶(た)えませんでした。
木がおいしげった参道(さんどう)※3には、千本ののぼりが立ちならびました。お参りする人は、ぞうりぬぎばからはだしになって、木の根や岩の角を足場にして神社まで行ったそうです。
現在では中日向の守り神として、年に一度おまつりをしています。
※1 十四世紀半ばから末までの五十余年間。
※2 天王の親せき
※3 神社へおまいりするための道